[{"onix":{"RecordReference":"9784788515901","NotificationType":"03","ProductIdentifier":{"ProductIDType":"15","IDValue":"9784788515901"},"DescriptiveDetail":{"ProductComposition":"00","ProductForm":"BA","ProductFormDetail":"B119","TitleDetail":{"TitleType":"01","TitleElement":{"TitleElementLevel":"01","TitleText":{"collationkey":"ショウガイシャトワライ","content":"障害者と笑い"},"Subtitle":{"collationkey":"ショウガイヲメグルコミュニケーションヲヒラク","content":"障害をめぐるコミュニケーションを拓く"}}},"Contributor":[{"SequenceNumber":"1","ContributorRole":["A01"],"PersonName":{"collationkey":"バン ユキエ","content":"塙 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「笑えない」）という行為は、その人やその社会の価値観を反映しているのである。\n\n　何かを「笑う」ということと、何かを「笑えない」ということは、表裏一体の問題であるにもかかわらず、「なぜ笑えないのか」を私たちが問うことはあまりない。「笑う」という行為をめぐっては学問的にも従来さまざまな議論が展開されてきた。しかしアカデミックな言説においては、「笑いがどのような条件下で発生するのか」が焦点化されることはあっても、逆に「なぜある特定の状況において、人々は笑うことを躊躇したり、笑うことが不可能になったりするのか」が焦点化されることはほとんどない。だが、「笑う」と「笑えない」が表裏一体の問題だからといって、笑いが生じる条件をただ単に反転させれば、「笑えない」という状態について考えたことになるのかといえば、決してそうではない。なぜならば「笑えない」という事実は、笑いが生じるための条件の不足によって発生するわけではなく、一定の取捨選択や価値判断のうえで実行された行為だからである。\n\n　「笑う」という行為は、社会的に黙認され共有された境界の侵犯―たとえば、普通と違うものや過度に強調されたもの―に向けられるということが学問的には頻繁に指摘されているが、それは「笑えない」という状況にも該当するのではないか。だとすれば、「笑う」と「笑えない」は決して対の関係にあるわけではない。「笑える」ものがある一線を越えると、途端に「笑えない」ものへと転換しうることもある。そこには、社会的なタブー化のプロセスが介在している。\n\n　本書の試みは、テレビなどのメディアにおける障害者表象に向けられた視線の変遷を、「笑い」という視座から読み解こうと試みるものである。一般的な感覚でいえば、障害者表象をめぐる問題と「笑い」をめぐる問題を関連づけて論じることは、ややもすると、意外な組合わせのように感じられるかもしれない。しかし、笑いが社会的なコードや人々の認識を前提に生起しうる事象であるならば、そのような視点は、障害者表象を社会的な水準から考察するための一助となる。障害者と笑いの関係を紐解いていくことは、その背景に存在する社会構造や政治性の問題を照射することにもなるだろう。\n\n　以下では、あらかじめ本書の構成について予告的に概観しておきたい。まず第一章では、理論的な視座を導入しながら、笑いの社会的な役割を提示する。ここでは、笑いにはある種の批判性が付随することを指摘し、笑いが社会的なコードや権力構造を前提として成立する事象であることを明らかにする。\n\n　つづく第二章では、障害者と笑いが歴史的変遷のなかで、どのような関係性に置かれてきたのかを考察の俎上に載せる。かつて「笑いの対象」とされてきた障害者が、次第に「笑い」という営為と切り離されていくようになる経緯を時系列的に整理していく。またそのような状況ふまえたうえで、「パフォーマーとしての障害者」という新たな位置づけの意義についても論及することになる。\n\n　第三章では、次章における議論の展開―障害者によるバラエティ番組の事例分析―を見据えて、その前段階として、そもそもバラエティ番組の現代的な特性とは何かを考えていく。また、そこでの笑いが「視聴者の読み」や「社会的な企図」とは分断された記号として消費されている点を抽出する。\n\n　さらに第四章では、障害者と笑いの関係性を問い直すための画期的な試みといえる事例―ＮＨＫが放送する障害者によるバラエティ番組『バリバラ』―を取り上げて分析する。この番組が置かれてきた変遷プロセスに着眼しながら、そこに見出せる立ち位置の特異性や、そこで提起される笑いの社会的な意味を探っていく。\n\n　最後の第五章では、「コミュニケーション」という視点を新たに導入しながら、『バリバラ』における障害者パフォーマンスと、それを視聴するという行為の意味について考察する。パフォーマンスを見るという行為が「良きオーディエンスを想定する」という態度や、「良きコミュニケーションを想定する」という振舞いのうえに遂行されることに留意し、障害者のお笑いが視聴行為の実践のなかで意味づけられていくことを明らかにする。\n\n　繰り返しになるが、本書が「障害者と笑い」というテーマを扱うのは、笑いという営為をめぐって障害者がいかなる抑圧に晒されてきたのかを記述することによって、障害者に対する社会の偏見やステレオタイプを明らかにするためであり、当然のことながら「障害者を笑いの対象にする」という旧来的な構図を肯定するためではない。既述のように、現代の社会が「障害者を笑うこと」を忌避することの延長線上で障害者と笑いの関係に言及することまでタブー視し、障害者が笑いと積極的にかかわろうとする機会を奪ってきた状況を考えれば、本書が扱うような「障害者と笑い」というテーマを論じること自体が、そのような状況に一石を投じる試みの一端になるかもしれない。\n\n　私たちが何かを笑うということは、単なる感情の発散にすぎないのだろうか。あるいは、私たちがメディア表象を受容するということは、単なる娯楽的な営為にすぎないのだろうか。たとえ意識することが少ないにせよ、もしかしたらそこには見えない力―知らず知らずのうちに、何かを「笑える／笑いえない」と判断したり、ステレオタイプ表象を妥当なものとして受け入れてしまう感覚が、介在しているかもしれない。ふと思い浮かぶこうした疑念に立ち止まり、それに向き合ってみることこそが、本書の目指すところである。","ndccode":"","kankoukeitai":"","sonotatokkijikou":"","jushoujouhou":"","furokusonota":"","dokushakakikomi":"","zasshicode":"","hatsubai":"","hatsubaiyomi":"","storelink":"","author":[{"listseq":1,"dokujikubun":""}],"datemodified":"2018-09-07 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